「純粋に音楽を評価する」ことは不可能だし、純粋な評価の理想視は危険である

純粋に音楽を評価すべきだ、という話がある。

しかし、「純粋に音楽を評価する」ことは果たして可能なのだろうか。音楽に限らずあらゆる表現は文脈から逃れられないのではないだろうか。

そもそも、「純粋に音楽を評価する」とは一体何のことを指しているのだろうか。文脈なくして「音楽を評価する」ことなど可能なのだろうか。すなわち、「純粋に音楽を評価する」ことはその定義からして矛盾するのではないだろうかということである。

更に、「純粋に音楽を評価する」ことは望ましい、という言説には危険が伴うのではないのだろうか、という違和感もある。

今回はまず文脈から独立して「純粋に音楽を評価する」ことはできるのかどうかについて、文脈から独立して評価できそうな事例を元に考えていく。その後、「純粋に音楽を評価する」ことがその定義からして矛盾を孕んでいる可能性について思考を巡らせてみようと思う。そして、「純粋に音楽を評価する」ことが持つ危険性について触れる。

「純粋に音楽を評価する」ことは果たして可能なのだろうか 

反論1:ラジオから流れてくるアーティストの名前も知らない初めて聞く曲に対しては、「純粋な音楽としての評価」が可能である。

これはどうだろうか。例えば、そのアーティストが環境活動家であったとして、もしそのアーティストのことを知っていれば初めて新曲を聞いたとしても、このフレーズは環境破壊の暗喩なのだろうと推測していくことができるかもしれないし、サンプリングされた嵐の音は地球温暖化による異常気象を表現しているのかもしれない、と考えていくことができるだろう。

一方で、そのアーティストのことを全く知らない人が聞いた場合、環境破壊についての暗喩のフレーズは、カップルの破局を表していると考えることができるかもしれないし、サンプリングされた嵐の音は動揺する心を表したものだと考えるかもしれない。確かに、そのアーティストについての文脈からは自由に考えることができるのである。

しかし、これで本当に文脈から自由になれたのだろうか。

音楽は音階、楽器、音色、リズムといったさまざまな要素が、多様な文脈の中で記号となってきた。

例えば、TB303の音が聞こえたらそれはどうしてもアシッドハウスを想起してしまう。TB303の音によって、その曲はアシッドハウスの文脈の上に置かれる。そして、アシッドハウスの文脈に置かれたことで、それはレイブやセカンドサマーオブラブの持つその思想性、政治性と何らかの形で関係を持たざるを得ない。一つは、レイブなどの思想性、政治性を支持するという関係、次に、レイブなどの思想性、政治性を批判したり再解釈するという関係、最後に、それらをあえて無視するということで逆接的に発生する関係。

どのみち、その文脈に置かれてしまうことは避けられないのである。

反論2:音楽の文脈を知らなければ「純粋な音楽としての評価」が可能である。 

確かに、知らなければ逃れられるかもしれない。

しかし、何も文脈を知らない音楽はありうるのだろうかと。

仮に、その音楽に関する知識を持っていなかったとしても、知らないということ自体が一つの記号となって、文脈の中に置かれてしまう意味を持ってしまうのではないだろうか。

全く知らない系統の音楽を聞いたとする。例えば、今まで触れることのなかった、どこかの先住民族の音楽を聞いたとする。これは例えばポピュラー音楽やクラシック音楽のような自分の知っている文脈の中で評価することはできないだろう。しかし、その音楽は「ポピュラー音楽やクラシック音楽ではない音楽」という記号が付与されるのである。

西欧中心主義的な区分である「民族音楽」はポピュラー音楽とクラシック音楽以外の音楽を指し示すわけだが、今まで聞いたことがなかったジャンルの音楽であっても、「知っている音楽の文脈ではない」ものとして、今までの知っている音楽の文脈の中で捉えられるのである。例えば、この音楽は西欧の音楽の伝統にはない音の使い方をしているが、現代音楽の試みの中では同じような音を聞いたことがあるぞ、などと文脈の中で評価することになるのだ。

例えば、能は1920年代フランスにおいて現代演劇に関わる人々から大きな関心を集めたが*1、それは欧州の演劇や音楽の文脈の中において評価したときに、能が新しい前衛演劇を作り上げていく上で示唆に富んでいたためだと言えよう。

そもそも、ほとんどノイズのような音楽や、金属音だけの音楽が(前衛)音楽として扱われるのは、伝統的な音楽の文脈から外れているが故に、文脈から外れたものとしてその文脈に布置されるためであろう。

その音楽の文脈を知らないからといって、文脈から自由になって、「純粋に音楽を評価」することはできないのである。 

「純粋な音楽としての評価」はそもそも定義として矛盾しているのではないだろうか:評価には環境も影響する 

そもそも、「純粋な音楽としての評価」はそもそも定義として矛盾しないものなのだろうか。

メディアや学校の音楽の授業などを通して、クラシック音楽やポピュラー音楽に慣れ親しんでいるある程度成長した人間にとっては、音楽を評価するとき文脈からは逃れられない。しかし、音楽を初めて聞く赤ちゃんは「純粋な音楽としての評価」が可能なのかもしれない(!)

赤ちゃんが音楽を初めて聞いたとき、楽しく感じたり、不安を覚えたり、したとき、それは「純粋な音楽としての評価」なのではないだろうか。確かに、今まで論じてきたような西欧音楽の文脈だとか、そういう文脈からは自由である。

しかし、だからといって「純粋な音楽としての評価」をしているかは悩ましい。もし、その音楽の評価は、音楽を聞く環境にも左右されるためである。赤ちゃんが快適な空間で安心感を得ながらその音楽を聞いた場合と、不安な環境でその音楽を聞いた場合で、音楽の評価は変化するかもしれない。

ストレスを感じない状況で聞いた音楽をその音楽の「純粋な音楽としての評価」と定義するとしてみたところで、それは果たして「純粋な評価」だろうか。「ストレスを感じない状況で聞いた際の評価」でしかないのではないだろうか。

純粋な音と音楽

ところで、純粋な音は存在するのだろうか。

例えば、ジョンケージの《4分33秒》は「無音」であるが、その「無音」は音楽であるとされるがために、クラシック音楽の文脈に飲み込まれている。

しかし、公演前のコンサートホールは《4分33秒》と同じように「無音」であるが、音楽ではないため、ただの無音である。これはもしかしたら「純粋な無音」なのかもしれない。

海の波の音を音楽とすると文脈にい飲み込まれるけど、海の波の音とするとそれは純粋な海の波の音になるかもしれない。

ここでわかるのは、ある音を音楽であると定義したことによって、その音が文脈に飲み込まれるということである。それはある意味当たり前のことである。音楽は文脈を持っているわけで、ある音を音楽とすることは、その音を音楽の文脈上に置きますと宣言しているのと同じなのである。

音楽の持つ力の暴走警戒するために

なぜ、音楽は文脈から逃れられないと強く主張しなければならないのか。それは音楽の持つ力を自覚し、その暴走を警戒しなければならないためである。

音楽には力がある。だからこそ、権力は音楽の力を使うことで、被支配者を誘導していくことが可能なのである。音楽を含む芸術は音楽自身の文脈のみならず、社会のありとあらゆる文脈の中に置かれ、さまざまな意味を持つことになる。音楽をうまく文脈に載せることができれば、音楽の世界を超えて、社会全体へと影響を持つことになる。《Imagine》であれ《威風堂々》であれ、それはある文脈に置かれ、政治や権力とも関係を持ちながら存在しているのである。

そうした中で、そもそも現実的に不可能な「純粋な音楽の評価」という神話を無邪気に想定し、それを理想的な評価かのように扱うことは危険を伴う。それは本来は文脈を持っているにもかかわらず、それを無視することであるためである。文脈を無視し続けて音楽を評価することは、社会への影響があるかもしれないものを、不用意に扱うということになる。

私たちはそうした音楽の持つ危険性から目を背けてはならないのである。

*1:長野順子. (2020). 1920 年代フランスにおける 「能」 の受容をめぐって. 藝術文化研究, (24), 159-172.